「まなざし」って何?

文責:べとりん

 

当会の当事者研究では、「まなざし」という用語がしばしば登場するので、これについて説明します。

基本的には代表のべとりんが好んで使っている用語ですが、実感を上手く説明するのに使い勝手がいいので、しばしば他のメンバーにも広まって使われています。

感覚的に使っているので、もしかしたら間違っているかもしれませんが、とりあえず要望が多かったので掲載しておきます。

 

「まなざし」とは、それそのものは日常的にいつも感じている身近なものですが、

それが果たしている機能は多岐に渡り、全てを記述することはできません。とりあえず、このページでは、哲学者(主に現象学者)の思想をいくつか引用しながら、主なものを羅列していきたいと思います。

 

・まなざしの定義1:「見る側の視点」で対象を見るように仕向けるはたらきのこと。

参考:サルトル「石化」

具体例:

Aくんは今とてもご機嫌。深夜、他に誰もいないと思い、口笛を吹きながら道を歩いていた。しかし、後ろから自転車が自分のすぐ横を通り過ぎていったので、突然恥ずかしくなり口笛を吹くのをやめた。


このときの状況が、「まなざされ」です。「見られる」ということは、他者によって評価されることであり、なんらかの規範や評価基準を押し付けられることでもあります。Aくんは、自転車が自分の横を通り過ぎて行ったことで、周囲の目線を気にして口笛をやめました。つまり、「周囲の人から自分がどう見えるか」に従って自分の行動を決めるように仕向けられたのです。

このように、人は何者かによって「まなざされる」と、無意識的に「見る側」の視点に立って自分の事を見るようになります。他者の存在や他者の視線は、このようなはたらきを持っています。


・まなざしの定義2:対象に、"見る側"の評価基準・評価尺度を押しつける(or与える)はたらきのこと。

参考:一つの定規モデル 「評価するまなざし」(条件付きの愛、条件付きの肯定と呼ばれるものと同義)

Aくんはなぜ「恥ずかしい」と感じたのでしょうか。Aくんは、それまでは気持ちよく口笛を吹いていたのに、「まなざされた」途端、「周囲の人から自分がどう見えるか」を気にするようになりました。これはつまり、自分の見方が、自分の評価基準から、周囲の人の評価基準にシフトしているのです。自分一人しかいない時では、感情のままに口笛を吹くことが「良い(楽しい)」ことだったのですが、それを見ている他者が現れた瞬間、夜中に口笛を吹くことは「恥ずかしいこと」に切り替わってしまうのです。

人は他人を見る時に、「金髪の人→チャラい」「列に割り込む→悪い人」など、相手の特徴や行動から何らかの評価を下します。この時の「列に割り込む→悪い人」という、「何らかの特徴や行動」と「評価」を結合するもののことを、評価基準と呼んでいます。評価基準は、「何らかの特徴や行動」を、「良い/悪い」「美/醜」「善/悪」「優/劣」「正/誤」などと評価します。善悪観や規範意識も評価基準の一つです。

 

・まなざしの定義3:対象を、"見る側"の価値観や規範に従わせようとする支配の力。及び支配構造そのもの。

参考:フーコーの「パノプティコン効果」

「見られる」ということは、他者によって評価されることであり、なんらかの規範や評価基準を押し付けられることでした。このはたらきのことを、フーコーは「支配」と表現します。例えば、「人前に立つ時は、ちゃんとした服を着ていきなさい」とか、「そんな服を着ていて恥ずかしくないの」と言うことがあります。これは、「自分がどんな服を着るか」という選択を、「相手にどう見られるか」に従って考えているということになります。すなわち、「見られる側」は、「見る側」の評価基準や価値観に従って、自分の行動や選択を決めているのです。

やがて、「見られる側」は、「見る側」が傍にいなくても、相手の評価基準や価値観に従うようになります。このことを、フーコーはパノプティコンという監獄を例に出して説明しました。パノプティコンとは、中心に看守塔があり、その周りにぐるりと囚人のいる牢がある監獄です。看守塔からは牢の中が全て見渡せますが、看守塔はマジックミラーになっており、牢からは看守塔の中を見ることができません。囚人は常に看守塔の中の監視員によって監視されていますが、囚人からは監視員がいるかいないのか分からない、という構造になっています。囚人は監視員に監視されているので、規律に従わなくてはいけません。しかし、囚人からは監視員がいるかいないか分からないので、やがて本当にマジックミラーの向こう側に監視員がいるかどうかは関係なく自ら規律に従うようになります。

同じことは、学校でも言えるでしょう。学校では、先生が監視員であり、生徒が囚人となります。生徒の生活態度や服装が悪いと、先生は注意します。生徒は、何度も注意されるうちに、生徒は誰に見られているわけでもなく、その規律に従うようになります。規律や先生側の価値観に従うことに誇りを見出すようになる人もいるでしょう。「まなざし」は支配でもありますが、支配は教育でもあります。「まなざし」を与えられることによって、私たちは何が「良い」ことで、何が「悪い」ことなのかを学んでいきます。もし、自分の中に、何が「良い」か、何が「悪い」のかの基準がなければ、私たちは自分の行動をくみ上げることはできません。

このように、自分をまなざす具体的な他者がいなくても、まなざしを感じるようになることを、「まなざしの内面化」と呼んでいます。「まなざしの内面化」があるために、まなざしは他者から向けられるだけでなく、自分から自分に向けるまなざしや、概念やモノから自分に向けられるまなざしも想定することができます。また、私たちは、常に自分をまなざしている他者を仮想したり、自分に向けられている客観的には存在していないまなざしを仮想したりします。

参考:「空間からのまなざし」「ハードルからのまなざし


・まなざしの定義4:対象を何らかの向きに方向づけるはたらき。

参考:フッサールの「意味」を土台にしています

 評価基準は、「何らかの特徴や行動」を、「良い/悪い」「美/醜」「善/悪」「優/劣」「正/誤」などと評価し、「良い」と評価される在り方に向けて、対象を方向づけ、「悪い」とされる在り方を否定します。

次の例を見てみましょう。

Bさんは、子供のころから、親に「Bさんはいつも熱心に勉強してて偉いわね」と褒められてきました。そのため、Bさんは熱心に勉強することにやりがいと誇りを感じるようになり、熱心な勉強家に育ちました。一方、「勉強をしているから自分は偉いんだ(勉強をやめたら自分に価値はない)」という考え方が身に付いていました。そのせいで、体調が悪くても、講義を休むことに恐怖感があると言います。

Bさんは、親の評価基準に照らし合わせてまなざされてきたことで、親の評価基準を内面化しています。そのため、「勉強すること→偉い」という評価基準を自分の中に持っており、そちらに向けて方向づけられています。人は、まなざしによって方向づけられた向きに進んでいる時、自分に価値を感じ、自分の在り方や今ここで自分がやっていることに「意味」を感じます。一方、「悪い」とされている在り方は否定され、自分がそのような在り方として存在する可能性を切り落とされます。

「実存」とは、つまり「自分(や自分を含む世界)がまなざしに何らかの向きに方向づけられ」「自分(や自分を含む世界)がその方向に向かって進んでいると実感できる」ように在りたいという欲求だ、と考えると、シンプルに理解できるかもしれません。いわゆる「嗜癖」や「依存」的な行動、分かってはいるけどやめられない行動は、否定されているような在り方から抜け出して、なんとかして「実存」の枠の中に入ろうとする中で起こると考えられています。例えば「過食」という行動がありますが、人は常に「物を食べる」方向に方向づけられているため、食べている間は「実存」の枠に入ることができます。「リストカット」の場合、人は「痛み」を感じると、それによって「痛みに耐える」や、「痛みを味わう」方向、痛みに対処する方向に方向づけられるため、ただそこにいるだけでも「実存」の枠の中に入ることができるのでは、と説明できます(人によって受けているまなざしが異なるため、一概には言えませんが)

 

・まなざしの定義5:対象に何らかの「評価」を与える視線のこと。

参考:構造主義(ソシュールあたり?)

ここまで、まなざしが「評価基準」を相手に与えるというはたらきについて見てきましたが、一応「評価基準」だけでなく、「評価」そのものも与えるのだ、ということは指摘しておきます。「評価」とは、「いつも熱心に勉強してて偉い」などの、与えられた解釈とその理由が切り離せない形でごっちゃになったものです。

「評価基準」と「評価」はきちんと切り分けらるものではありません。この二つはどちらも相互に依存して成立しているものであり、片方だけを切り離せるものではないからです。例えば、「大きい」という意味は、「大/小」という対の概念なしには成立しえません。「赤」という色も、「オレンジ」でも「紫」でもない色として「赤」が成立しているのであって、評価基準なしでは「赤」という概念は成立しません。「評価」が伝われば、同時に意味を成り立たせている「評価基準」も自動的に伝わるのです。

例えば、「リア充は悪」という言葉をずっと言っていれば、同時に「非リアは責められる必要はない」というメッセージを送ることになります。「評価」はその背景にある評価基準(価値観)も同時に相手に伝えます。


・まなざしの定義6:対象に何らかの「解釈」を与えるはたらきのこと。

参考:カント「コペルニクス転回」

まなざしとは、物事の「存在」を構築するものでもあります。カントのコペルニクス的転回をイメージしてください。簡単に言ってしまえば、「虹が七色であるのは、見る側がそれを七色と認識するからだ」という話です。一方で、国や文化が違えば虹は六色であったり五色であったりする。つまり、対象に認識が従うのではなく、認識が対象を構成するのだ、というのがここでのカントの主張です。

私たちは、目の前のリンゴをリンゴ(=赤い、丸い、つるつるした、甘い匂いのする)として認識するのは、私たちが人間としての視覚や触覚や嗅覚を持っているからです。しかし、色覚障害のある人の世界では、リンゴとは「赤い」ものではありません。人以外の生物、たとえばトンボの見る世界では、まったく異なる姿になります。赤外線などの可視光以外の光を捉えられる生命体がいればリンゴの見え方はもっと違ったものになるでしょう。

私たちは結局のところ、自分達の認識の通りにしか対象を知ることができないのであり、その対象が「本当は」どんな姿をしているのかにたどり着くことはできません。リンゴがリンゴ(=赤い、丸い、つるつるした、甘い匂いのする)になるのは、私たちが「赤い」「丸い」「つるつるした」「甘い匂いのする」という解釈を目の前のリンゴに付与したからなのです。

このように、私たちは、対象を認識することで、対象に解釈を与え、対象を構成します。この機能を「まなざし」と呼ぶことができます。今まで「評価」と呼んできたものは、この「解釈」と同じものです。

 

・まなざしの定義7:「他者」の存在や「他者の見ている世界」の存在を実感させてくれるもの。

参考:サルトルの「他者の存在証明」

 詳しい説明は省きますが、サルトルは、人が他者を自分と同じような「主体(生きて思考したり世界を認識するもの)」として認識できるのは、自分が他者によって「まなざされる」経験をするからだ、と主張します。Aさんの横を自転車が通り過ぎた時、Aさんは自動的に「自転車の人から今の自分を見たらどう見えるだろう」と考えてしまっていました。「まなざれている」時、私たちは無条件に「他者も自分と同じように世界を認識していること」を前提としてしまっているのです。

「まなざし」によって、その他者も、私と同じような主体として世界に存在することを知ることができます。「まなざされる」経験は、唯我論的な世界に陥ることなく、他者の評価基準の存在を認めていくために必要なのです。


・まなざしの定義8:「私」の在り方を定めてくれるもの。

参考:サルトル ハイデガー「実存」

 サルトルは、「人間は自由の刑に処せられている」と言います。人間にはあらかじめ与えられた存在理由がないのです。フリーターになろうと、ニートになろうと、起業家になろうと、政治家になろうと自由です。

 自分がどのような存在であるのか、その「解釈」を与えてくれるのが「まなざし」です。人は、「自分」という存在を、まなざされることによって作り上げていきます。「アイデンティティ」とは、自分の在り方を定め、自分を方向づけてくれるまなざしのことです。先に述べた通り、まなざしは他者から向けられたものに限りません。自分から自分に向けられたり、仮想の他者から自分に向けられたり、概念やモノから自分に向けられたりするものです。

ハイデガーは、人を「現存在」と呼び、「おのれの存在において、この存在そのものが問題であるような」存在の仕方をしていると言い、このような存在の仕方を「実存」と呼びました。つまり「おのれという存在が、どのようなものであるのか、というその解釈が問題になるような存在者」こそが人間であり、「おのれという存在の解釈」を巡る争いこそが、「実存」という問題である、ということです。また、ハイデガーは、「現存在は世界や自分を解釈する存在である」と言います。似たような言葉として、似たような表現として、サルトルは「客体」と「主体」という言葉を出しました。「主体」とは、「周囲の物事や自分を自ら解釈する在り方」。対して、「客体」とは「自分から他者や自分を解釈することはせず、他人から解釈されることで存在できるような在り方」です。つまり、「モノ」は「まなざされる」ことしかできませんが、「主体」であるような存在は、自分や自分以外の対象を「まなざす」ことができるのです。

 なんにせよ、「自分」という存在は、あらかじめ定められた存在理由を持たないままに世界に放り込まれます。そして、他者のまなざしを内面化し、それをもちいて、自分に自己解釈のまなざしを向けながら、自分という存在を解釈していかなければいけません。「まなざし」は自分を何らかの向きに方向づけてくれ、その方向に進んでいることが実感できている間は、私たちは「実存」に悩まされることはないでしょう。しかし、自分を方向づけてくれる「まなざし」が失われたり、多すぎる「まなざし」によって食い違う方向に方向づけられてどちらにも進めなくなったり、進みたい方向に障害が現れて進めなくなった時に、私たちは思い出したように「実存」に苦しめられることになります。


・まなざしの定義9:社会的概念の解釈を決定し、また解釈の争いを動かすもの。

参考:社会構築主義

たとえば、「CさんとDさんは恋人である」ということは、何を持って決まるのでしょうか。そもそも、「恋人」という概念が何なのかは、誰が決めるのでしょうか。

社会構築主義などで言われるように、これらは多くの人の「解釈」の争いの中で、「それっぽく」定まっています。多くの人によって、「恋人とはこういう概念だ」と解釈されることによって、「恋人」という概念が定まるのです。「CさんとDさんの関係」も、CさんとDさん自身を含めた多くの人の「解釈」によって形成されます。このような「解釈」を生み出すものも「まなざし」と言います。

例えば「恋人」という概念は社会的な合意によって構築されますが、人によっては、一般的に信じられている「恋人」概念と相性が悪いことがあります。しかし、一度「恋人」として見なされてしまうと、その解釈によって縛られることが起こります。そのために、私たちの関係を表すもっと別の用語を使おう、という動きも起こり得ます。

 

「〇〇の解釈を決定する上で、誰のまなざしが決定権を強く持つか」のことを、「解釈の権限」と呼んでいます。「解釈の権限」は、他のどのまなざしの機能にも関わってくる考え方です。自分が将来どこに進みたいかを決める時、たまたま通りかかった人から言われたことは対して響かなくても、憧れの人からの励ましの台詞は自分に強い影響を残していくでしょう。「解釈の権限」は、方向づけの強さにも関わってきます。また、まなざしは支配の構造であると先に述べましたが、一般に「解釈の権限」が自分に集まる(=「見る側」になる)と、自尊心が高まります。


「解釈の権限」は、自分の元にあるほど、他者からの解釈を押し付けられにくくなり、自分が他者からのまなざしによって傷つけられる危険を回避しやすくなります。まなざしをまなざし返す」ことで、相手に奪われた解釈の権限を、もう一度自分に取り戻すことができます。一方で、独善的になり、自意識過剰に陥りやすくなったり、物事に意味を感じられなくなったりしやすいなどの弊害があります。

「オタク」と呼ばれる人ほど、「解釈の権限」を自分に集めたがるのではないか、と私は考えています。


・まなざしの定義10:対象の"可能性"を制限するもの

参考:ハイデガー「時間性」など

"可能性"とはハイデガーの思想における専門用語です。

例えば、Eさんは親に「お前は父さんの優秀な子だからね」とずっと言われて育ってきたとします。また、Eさんは自分という存在の解釈の権限を完全に親に渡しており、親には逆らえないとしましょう。

この場合、Eさんは親のまなざしによって、「父さんの優秀な子」という可能性の中に閉じ込められます。Eさんは、「父さんの優秀な子」以外の在り方では存在できなくなるのです。このように、まなざしはその人の可能性を制限します。つまり、相手が存在できる「枠」をどんどん狭くしていくのです。「解釈」が定められることにより、可能性を奪われ、自分の存在の在り方がますます削られていくと、私たちは生きづらさを感じることがあります。一方で、可能性が開きすぎていると、私たちは自分たちの行動を決めることが難しくなり、何からやっていいのか分からず、不安に陥ることになります。

当事者研究で「戦略」と呼んでいるものは、この「可能性」のことです。当事者研究の中で自分の事を語り直すことは、他者の眼があるなかで自分を自己解釈し直すことで、自分の可能性を今一度定義し直すはたらきがあります。「可能性」が絞られすぎて少ないために不安に陥っている場合、他人の話を聞いたり、自分の事を話したりすることで、自分の可能性を増やしていくことが重要になります。