「幸せ」には二つの用法がある

研究者:826日研究会

執筆者:<べとりん>

 

826日の当事者研究会では、「あなたが幸せを感じる時,感じない時」というテーマで当事者研究会を行った。この時、「外から見た幸せ」と「内から見た幸せ」という概念が提案され、「幸せ」という言葉をこの二つに分類した状態で議論が進んだ。

この内容について、私なりの意見をまとめておいた。また、この文章を書くときは、826日の会の報告書をかなり参考にさせていただいた。報告書の執筆者である<よしき>さんにお礼を申しあげる。また、社会学者の宮台真司の議論、および竹田晴嗣の「現象学入門」の議論を多少踏まえていることも申し添えておく。

 


・まず分類について

 研究会中では、「外から見た幸せ」と「内から見た幸せ」という分類を採用した。

 

 まず「内から見た幸せ」とは、その状況の中(内側)に置かれてみて、私の主観の内側から実際に感じ取れる幸せのことである。

研究会中では、『幸せという単語で表される感情(が分からない)』という発言が使われたが、これが「内から見た幸せ」のことを端的に表している。うれしいとか、楽しいとか、達成感とか、多幸感と呼ばれるものであろう。極論すれば、モルヒネを打って多幸感を味わえるなら、それは「内側から見れば」幸せな状況と言えるかもしれない。

 

一方で、「外から見た幸せ」とは、まだ実際にその状況の内側に置かれていないにも関わらず、その状態が「望ましいもの」と思われてくるような状態や要素のことである。

研究会中では、「外から見た幸せ」の一例として、『社会的に提示された「幸せ」のイメージ』という表現が出た。例えば、研究会中には、中高一貫男子校出身の人が「制服デート」への憧れについて語っていた。他にも、「彼女と一緒に星を見る」「彼女と一緒に花火を見る」など、自分の理想とする幸せな状況についての意見がいくつも出た。このような「幸せ」は、本人が実際にこの状況を経験し、その状況の内側において、幸せを「感じ取った」わけではない。彼は他の人や他の人が作った作品からの伝聞情報を得たのみである。にもかかわらず、その人はその状況が「とてつもないほどの幸せ」であることを、痛いほどの気持ちを伴って「確信」している。

 

当然だが、内側から見れば幸せな状況だとしても、外側から見ても幸せだとは限らない。先のモルヒネの例を出せば、モルヒネを打たれた本人は、強烈な多幸感に見舞われているとしても、それを傍で見ている周りの人は、その人が「幸せ」であり、自分もそうなりたいと感じるかどうかは別問題である。

また、外から見て幸せとされている状態になったからといって、必ずしも内から見ても幸せであるとも限らない。実際に、研究会中にも、制服デートに憧れる彼に対し、制服デートの経験者から、「そんなにいうほど多幸感を感じたわけではない」という意見が出た。

他の例を挙げると、「善い行いをしていれば、天国に行けて幸せになれる」と言われているが、実際に天国に行けて幸せになれるかを実際に経験して確かめた人はいない。あのケーキを食べたらどんなにおいしいだろうと思ってたのに、食べてみたら大したことはなかった、ということはしばしば起こりうる。外から見て幸せな状況を達成したからといって、内から見た幸せを経験できるかどうかは別問題である。

 

・二つの「幸せ」の機能の違い -「外側から見た幸せ」-

 この二つの「幸せ」は、果たしている機能がそもそも異なっている。

 

 「外から見た幸せ」の機能を考える上で、とても印象的なエピソードが研究会中に出た。制服デートに憧れる彼は、「若いうちに、制服デート(やそれに代表される青春)を経験しておかないと、マトモな人間になれない」という感覚に襲われてきたという。そして、実際にモテるためにはどうすればいいかと考え、さまざまな工夫を凝らしてきたという。

 このような感覚を、研究会では「実績リスト」という言葉で表現した。コンピューターゲームにはよく「実績一覧」というコーナーがあって(「クリアチェッカー」とか、他の名前もある)、ある条件を満たすと「実績No.1:○○が解放されました」などという言葉が出てくる。このような条件をクリアすると、何も無い場合もあるが、新しいステージが現れたり、今まで使えなかったアイテムがもらえたりもする。だが、基本的には実績を集めることそのものが目的になっている。

特に大乱闘スマッシュブラザーズなどの格闘ゲームは、自由に対戦ができるだけで、ゲームそのものに「ステージクリア」という概念はない(一人用ゲームは別だが)。開かれた自由な状態のなかで、プレイヤーは主に「実績」を集めていくことを目標として、ゲームをプレイしていくことになる。

 

 「外から見た幸せ」は、ありとあらゆる物事に「意味」を付与する目標としての機能を持つ。

 「外から見た幸せ」は、その状態そのものよりも、そこに到達するまでの過程に「意味」がある。別の表現をすれば、「外から見た幸せ」は、そこに至るための努力や行為、偶然、その他あらゆる要素に「意味」を付与する機能がある。過去や現在、未来のありとあらゆる行為や出来事は、その結末が「幸せ」に繋がっている(と思われる)ならば、「外から見た幸せ」を結末に据えたその文脈(物語)の一要素に位置づけられることで初めて「意味」を持つ。

 

 元々「意味を感じる」とはそういうものだ。私たちは、物事を形容することに「意味がある」とか「意味がない」という表現を使う。

 例えば、「誰々のコンサートに行こうとして急いで短期バイトしてお金を稼いだけど、中止になったみたいだ。努力した意味が無かったよ」という時、彼は「コンサートに行く」という結末が重要だったのであり、お金を稼ぐという行為は、「コンサートに行くためのもの」として捉えられている。そして、その結末が果たさなかったために、そのお金は「無意味」となったのだ。

 この時、あなたは「いや、稼いだお金は手元に残ったんだから、意味はあったでしょ」と反論するかもしれない。これは「コンサートに行く」とはまた別の物語を作り、その中に「お金を稼ぐ」という出来事を位置づけたのだ。ここでは、「手元のお金が増えた」という「結末」を「外から見た幸せ」を規定し、「急いで短期バイトした」という努力をその過程として位置づけたのである。

 

 「外から見た幸せ」を目標として、それを目指す行為は、必ずしも到達地点に「内から見た幸せ」があることを必要としない。

 制服デートに憧れる彼も、天国に行くことを望んで善行を積む人も、「実際に自分がその状況に置かれたときに自分がどう感じるのか」について、つまりその状況が「内側から見ても幸せなのか」について、詳細まで詰めて予測しているわけではない。彼らは喜びとか達成感とか多幸感に憧れているのではない。

 ヒーローショーに憧れる子供は、その舞台に立つ「ヒーローの姿」に憧れるのみで、着ぐるみやスーツの下で汗だくになっている中の人の苦しみなど全く考えていない。子供が憧れているのは「ヒーローの姿」であって、その中の人の「体験」そのものでは絶対にない。

 つまり、私たちは、「感情」や「体験」に憧れているのではなく、かならずその「状況」に憧れるのである。

 

・「騙されていないと生きていけないよね」

 上のタイトルは、研究会中に出た印象的な言葉である。

 参加者の中から、「受験期はつらかったけど、東大に受かればきっとサークルで女子と関わったり面白い講義がいっぱい受けられたりして幸せになれると思って頑張っていた。なのに実際は全然そんなことはなかった。」という発言があった。

 これはまさに、「東大に入学できた」という「外から見た幸せ」を目指して頑張ったにも関わらず、「内から見た幸せ」が伴わなかったケースであろう。

 ここでいう「騙される」とは、「外から見た幸せ」を目指して努力し、その状況に到達したのに、「内から見た幸せ」が伴わないことを指している。ここで示された幸せはまさに「ハリボテ」だった。外側だけは豪華であったが、実際にその中に入ってみたら、そこは空洞だったのである。

 

 だが一方で、そういうふうに「騙されて」いないと「生きていけない」というのである。本当は、そこに辿り着いたところでうれしさや多幸感などの「内から見た幸せ」を得られないのだとしても、「外から見た幸せ」を信じ、それを追いかけることで、私たちは生きていく。

 「善行を積んで天国に行けば幸せになれる」というが、私たちは決して生きたまま天国に到達することはできない。ただ、「天国」という楽園(変な表現だが)を外側から眺めることしかできない。だが、その決してたどり着くことのできないイメージこそが、私たちが善く生きようと努力することに「意味」を与えてくれ、モチベーションを与えてくれるのである。

 

・二つの「幸せ」の機能の違い -「内側から見た幸せ」-

 こうしてみると、「内から見た幸せ」の機能は、次のように言えるだろう。

 「内から見た幸せ」は、その状況が自分にとって本当に幸せであるのかどうかを、判定する機能を持っている。

 繰り返し言っているように、「外から見た幸せ」とは、必ずしも実際に「内から見た幸せ」を伴う必要はない。そこに辿り着けば幸せになれるという「信じること」が必要なのであって、事実として幸せになれるかとは別問題である。

 しかし、東大に入った彼が絶望したように、外から見れば幸せな状態だったとしても、内側から見て幸せな状態ではなければ、それは幸せな状態ではなくなってしまう。簡単に言えばこれは距離の問題であり、遠いところよりも、より近いところで調べた結果の方が優先するのである。逆に、最悪だ最悪だと思っていた状況でも、いざ慣れてみると大したことはなかった、という場合もあるだろう。

 ここでいう「本当の」幸せとは、より詳細に調べてもボロが出ない、という意味である。例えば、私たちが金貨の鑑定を依頼されたとき、重さを測っても、酸に付けても、叩いて薄く延ばしても、その他いろいろな試験をすべてやっても、それが金として見られる性質を示すならば、それは本当の金であると結論付けるだろう。

そういう意味で、「内から見た幸せ」は、それが「本当に」その人にとっての幸せであるかどうかを検証するための最も有力とされる検査方法である。これはあくまでその人の主観によるものであるから、その人以外の人間にとっても「幸せ」であるかどうかは全く保証しないが、その人にとって「幸せ」であるかどうかは、「内から見る」ことによって検証される。

 

・まとめ 

 情報過多な時代になれば、今まで社会的に流布していた「外から見た幸せ」を、実際に「内側から」検証した人の意見が大量に手に入ることになる。そうすれば、今まで外から見れば幸せだったものが、実際はそれほど薔薇色でもないことが自然良く知るようになる。

 だが一方で、私たちは「騙されていないと生きていけない」。「外から見た幸せ」が本当に幸せなのだと信じていなければ、自分の努力や行為、ありとあらゆる周りの出来事から「意味」が失われてしまう。

 

 私個人としては、「騙されている」という表現にも、やや過去の自分の失敗へ後悔がこもり過ぎているのではないかと思う。たとえ、「内から見れば幸せ」ではないとしても、それが「外から見て幸せ」だというのなら、それを幸せと信じ、目指して努力することに何の不都合があろうか。なんというか、それが人間の心の自然な在り方ではないのか、なんてこと思ってしまう。自然な在り方、なんてことが客観的には特定しようがないことは知っているのだけど。

 

 たとえ実際はただただつらいだけだとしても、あの日見たマラソン選手の雄姿に憧れて、長距離走の選手を目指す人もいる。馬鹿な行為をして笑いを取るお笑い芸人も、その自虐行為の中にプロ意識と誇りを持っている。

 私たちの行為の意味は、かならずしも自分の内的体験からのみ確定するわけではない。私たちが自分の思い出を幸せなものと取るか、恵まれない者ととるかは、時間によって変わり得る。

 

 「終わりなき日常を生きろ」を書いた宮台真司しかり、現代社会の課題は、自分の行為にどうやって意味(強度)を見出していくかだという。

 「内から見れば幸せ」が得られないとしても、自分の生に意味を見出していくこと。それが問われているのではないか、と感じる。